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プーチン支持率急上昇はテレビ・メディアの生んだ空説? 

プーチン大統領の支持率が、クリミア併合とウクライナ危機を背景に急上昇しています。
独立系世論調査機関レバダ・センターが4月末に発表した世論調査では、なんと82%でした。2012年5月に大統領に復帰してからの支持率は60%前後で推移していましたから、驚異的とも言える数字です。

とはいえ、こうした国内の空気に警鐘を鳴らす記事も、反政権派の新聞に堂々と掲載されるところが、昔のソ連時代とは違うところです。その筆頭ともいえるノーバヤ・ガゼータ紙の7月28日付電子版(http://www.novayagazeta.ru/)に、スパイスの効いたこんな記事が載っていました。

「ここ数か月間の話題と言えば、 プーチンの高い支持率と、あらん限りの力を尽くしてロシア政権を支える国民、という類のものばかりだ。ソチオリンピックで跳ね上がったプーチンの支持率には、確かに驚かされる。この2年半、彼の支持率はその統治時代を通して最低値あたりをさまよっており、如何なる奸策も功を奏さず、まったく伸びなかったことを考えれば、なおさらだ。
確かに、クリミアの併合とウクライナでの戦闘は、ロシア人にとっては不足のない大きなテーマである、という印象はある。言うなれば、これは紛れもないロシア人の政治信条だ、という感触である。
その一方で、一般的な解釈を施せば、今日、ロシアの世論はテレビ・メディアに完全にプログラミングされているから、政権がちょっと吹き込んだだけですべて狙い通りなった、という主張にもたどり着く。
実際、プーチンの支持率急上昇は、ここ数か月間の各種社会的データの中で、もっとも驚くようなことではないのである。驚くべきは、ロシア人の意見の変動が、文字通りすべての面で流れを替えてしまったことだ。政権に対する懐疑的態度は、全面的な正当化に替わった。人々は、ただ国内の状況は良くなっていると言うだけではなく、経済状況も自分たちの暮らしぶりも良くなっていると言い出し始めた。これは統計データとは真っ向から矛盾する。
さらには、もっとも驚くべきことに、汚職に対する否定的評価が著しく下がってきている。ここ数年間、汚職は増えていると考える人の割合は安定して50%台を占めており、少なくなっていると考える9%の人々を凌駕していた。ところがこの春、汚職の増大を懸念する人の割合は突然一気に20%も低下し、プーチンの支持率は逆にちょうど20%上昇したのである。
こうしたデータを見れば、一方では、テレビ・メディアが視聴者の頭に移り住んだだけ、という感じを受ける:彼ら視聴者がすべての質問に、あたかも紙の上でも<テレビ・メディアを基準に>回答しているかのような・・・
その一方で、よく考えれてみれば、ロシアの世論はテレビ・メディアによって完全にプログラミングされているというテーゼは、やはり否定されるべきだろう。もし人々をあっさりプログラミングすることができるのならば、なぜ政権は2011年の下院選で<統一ロシア>が事実上敗北し、大規模デモが巻き起こり、支持率が軒並み下がり、プーチンも大統領選でそれほど圧勝できなかった、という不愉快な目に合う羽目になったのか? 2011年から2012年にかけて、政治制度とその具現者たちに対する懐疑心が膨れ上がるという極めて明確な潮流は、どう説明すればいいのか? これもプログラミングされたものだった、というのだろうか?
社会学者たちのアンケートの回答者たちが、かなりの程度テレビ・メディアを<反映している>のは、実際には当たり前のことである。マスコミは、切実な社会的諸問題を議論するためにこそ、存在しているのだから。正常な状況では、マスコミはこうした諸問題について対立する立場の基本的スペクトルを中継し、社会学者たちの世論調査によって、様々な立場の支持レベルを知ることができる。メディアに接する有権者は、そこで討議されている問題の多くについて、自身で熟考した上で確信を抱いているわけではない。彼は、様々な要因を総和してより説得力があると思われた権威ある意見に同調するだけである。
しかしながら、メディア・リソースの90%が独占され、ただ一つの視点しか反映されてない状況では、事情は違ってくる。社会学者たちは、様々な視点がそれぞれどれほどの支持を得ているか、を測ることができない。なぜならば、調査の回答者たちはそうした様々な視点に触れていないからである。
しかし、社会学的データが示しているように、世論は決してテレビの青白く冷たい仮面をかぶって縮こまっているわけではない。世論はダイナミズムを保ちはするが、社会学的計測結果の意味が変わってくるのだ。アンケートはあれこれの問題への解答の様々なバリエーションに対する態度を図るのではなく、テレビ・メディアによって伝えられる<正しい見解>に寄せる信用度を測ることになる。事実上、<公式見解>とその中継媒体としてのテレビに対する信用度が測られるのである。
その際に、ある問題においてはテレビ・メディアに高い信頼感を抱き、ある問題においては意見を異にしたりするだろう。普通、自分たちに身近で切実な問題(収入・経済・汚職・公共福祉)ではより懐疑的になり、国際問題や抽象的な問題(より望ましい発展モデルとか、西側諸国との関係とか、歴史的評価とかの類)では、<公式見解>に対する懐疑心が薄れる。
こうした文脈でいえば、2014年の春に世論が突然変容するという<転換>現象は、次のように説明できるかもしれない。ウクライナ東部でロシア人たちが<ファシスト集団>と闘っているという、ほぼ思いつきのような伝説の助けを借りて、テレビ・メディアは視聴者の心を掴み、感情的に引き込み、<糊付け>したのである。それが、あらゆる方面で<テレビ・メディア>に対する信用を煽って一気に上昇させたのだった。
もっとも、すべての方面で、というわけではない。今回のエピソードにおける<プーチン支持率急上昇>の特徴は、さらにもう一つの事実も示している。プーチンは、現在の高支持率を過去に三回達成している。最初は2000年で、エリツィン退陣とチェチェン戦争が背景にあった。2003年12月には、プーチンの<オリガルヒとの闘い>があった。そして、2007年7月から2008年秋にかけては、稀に見る経済成長とグルジア紛争があった。
今回の総動員的なエピソードは、ある一点でこれまでとは著しく異なる。高い期待度が伴っていないのだ。政治状況と経済状況の変化に対する期待度は、2012年から2013年にかけてと変わらない、きわめて低い水準にとどまっている。つまり、社会的政治的現体制に対する根本的なフラストレーションは溜まったままなのである。それはドネツクの砲声で、一時的にかき消されたに過ぎない。
現在の結束は、<政権党>と<プーチン党>の結束というより、むしろ<テレビ党>による疑似結束だ。より正確に言えば、具体的なテレビ・プロジェクト(<テレビ党>による動員はオリンピック期間に始まった)の周りに人々が結束したのである。しかし、この結束には、<テレビ画面>すなわち<プロパガンダ・マシーン>をつけたり消したりする労力だけではなく、いやそれ以上に、ソチのオリンピック・インフラであれ東ウクライナの戦争であれ、そうしたシリーズ物に不可欠な現実の装飾を整えるために、莫大な経費と緊張が必要とされるのである。
プーチンに対する高い支持率は空説であると言いたいわけではない。我々が政治について語るとき、多くの場合には空説とその優劣について語っている。私が言いたいのは、世間一般の考えに反して、プーチンの支持率急上昇と政権寄りの結束は、政権の膨大な可能性についてではなく、むしろこうした可能性が枯渇していることを物語っている、ということなのだ。不可欠な内政バランスを維持するために、テレビ・メディアを使って結束を図る新たなラウンドごとに、文字通り巨額の経費がかさんでいく。次に来るのは、一部政治的、そして経済的な、ロシアの国際的孤立だろう。
こうしてみると、2012年より今日の方が、大規模な危機が起こりそうな予感がする。危機への道を開いているのは、バラトナヤ広場の反政権派闘士ナヴァリヌィではなく、自身の政治局と中央テレビ局を抱え込んでいるプーチン自身だ。これは悪いニュースである。悪いニュースには、まったく事欠かない。」

この記事の筆者が抱いている直感的な危機感、じわじわと忍び寄ってくる嫌な時代の空気感、それを感じ取り、対象化していく健全な知性と理性が生きている限り、ロシアはまだ大丈夫なような気がします。それこそが、ロシア社会の知的良心であったし、これからもそうだろうと信じたい。
日本もまた、そうであってほしいと、心から願うものです。

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