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ロシア宗教界指導者たちの見る創造の自由

10月24日にモスクワのユダヤ博物館で、ロシア正教会キリル総主教の主催の下に、ロシア宗教間会議が開かれました。
このロシア宗教間会議は、1998年12月23日に、ロシア正教・イスラム教・ユダヤ教・仏教の各宗教共同体指導者の共同会議を基盤として設立されたものです。なにしろロシア連邦は多宗教国家ですからね。名誉議長はキリル総主教で、様々な宗教と様々な民族のはざまにある世界を補強し、民族間紛争を燃え上がらせるために宗教感情を利用することに抗して、社会に伝統的な倫理的価値観、調和と安定を確立することをその活動の目的としました。
後述しますが、おそらくはロシア映画<マチルダ>の公開を巡る社会の動揺を念頭においたものと思われますが、今回の会議では<創造の自由>が大きなテーマとなりました。

10月24日付コメルサント紙電子版(https://www.kommersant.ru/)の記事です。     

「会議にはロシアの伝統的宗教の指導者たちが集い、文化および芸術に携わる人々にはその活動に責任を持つように呼び掛け、また社会には何をどう評価するかについてよく考え、様々に持ち上がる意見の相違を善意ある対話で解決するよう心掛けるように呼び掛けた。
ロシアのユダヤ共同体連盟の提案により、今回の定例会議はユダヤ博物館および<寛容性のセンター>の敷地内で行われることになった。会議開始前に、ユダヤ共同体連盟会長のアレクサンドル・ヴォロダとラビのベルル・ラザルがキリル総主教に博物館を案内して回った。キリル総主教は興味深げに展示品を見て、ホロコースト犠牲者の名前が書かれた壁の前で追悼の蝋燭を灯した。その後、宗教活動家らに伴われ、会議が行われる博物館の中2偕に上がって行った。
『我々の会議は1917年10月革命百周年記念を前に開かれる。革命は、信者たちを迫害し、寺院を破壊し、全面的な反宗教プロパガンダを展開するという、まことに悲惨な結果をもたらした出来事であった』と、総主教は演説の冒頭で述べた。『過ぎ去った世紀を振り返るに、これまでに見たこともない可能性を人間に提供した未曽有の科学技術の発展も、数百万人の犠牲者を生んだ恐るべき悲劇を未然に防ぐことはできなかった。その原因はどこにあるのか? 多くは、神のいない生活を築こうとして攻撃的に、これ見よがしに宗教を拒否し、倫理的価値を忘れてしまったことにある』
現代性ということに触れて、総主教は『今日われわれは特別な注意をもって、人として個人の価値とは何を意味するのか、ということに向き合っていかなければならない』と述べた。
『どれほど人の暮らしが破壊されてきたか、どれほど人間の尊厳が政治的・イデオロギー的動機の気の向くままに蹂躙されてきたか・・・自由をやりたい放題と混同してはならない。人間の権利と自由の概念は、倫理的な責任感についての理解をもって補足されなければならないものである。いかなる場合においても、自由と権利のテーマは、自身の潜在的あるいは目に見える敵対者に打撃を与えることを目的とした思惑や、ある一定のイデオロギー的システムを構築するためのテーマとはなりえない』
総主教の言葉によると、『ロシア正教会の立場からすれば、人間の自由と権利のヒューマニスティックな解釈が、中絶やホモセクシュアリズム、安楽死といった罪深い現象を社会標準として容認するという社会通念を確立するために利用されることは受け入れられない』『もしわれわれが人間を神から引き離すならば、尊厳はその拠り所を失ってしまう』と総主教は主張する。
『もしかすると、真の自由とは人間にとって聖なるもの貴重なものを抹殺することであると言い表されるのであろうか? もちろん、そうではない。挑発と冒涜が始まっているところでは、人間の自由は意識的に制約されるべきである』
他の宗教的指導者たちも総主教を支持し、倫理性について発言した。ラビのベルル・ラザルは『この世界では何事も破壊せず、正しく生きることが必要だ。自分の周りにいる人々を大切に守る必要がある。・・・残念ながら、現代は自由教育の世紀であり、学校や職場や社会のあらゆる分野でわれわれは様々な侮辱に直面している』と述べた。『信者たちの感情や宗教的価値を侮辱することは自由ではない。これはもっとも恐ろしい結果に至る冒涜である。人間に対する侮辱、神に対する侮辱である』
『今日、宗教的価値や民族的価値が嘲笑と愚弄の対象に成りつつあるのは悲しむべきことだ』と、ロシアに住むイスラム教徒たちを精神的に統治している中央局のタルガット・タジュディン・ムフティは述べ、創造的インテリゲンツィア層に祖国のために共同して働こうと呼びかけた。
『ソ連時代には人々の間にこれほどの憎悪はなかった。我々は今、憎悪の空気の中に生きている』と、ラビのアドルフ・シャエヴィッチも強調した。もっとも、現代世界の大きな問題は、どういうものであれ狂信現象であると彼は考えている。
『どういった分野であれ狂信は、信仰を持つ人間はいかに生きるべきかという戒律から人を乖離させる。話題の映画<マチルダ>をめぐる熱狂を観察していると、ここでもやはり極めて強い狂信が渦巻いているように私には思えるのである。あなた方の、ロシア正教会首脳部の忍耐強さに、正直言って私は驚いている。なぜならば、自身を総主教より聖なるものと位置付けていると言ってもいいような人々がこれほど多くいるということに、驚愕してしまうからである』 ラビの意見によると、そうした羽目を外した人々は正道に戻したほうがいい。
最後に宗教指導者たちは、『ロシアの伝統的な宗教は、個人とその権利、そして神より与えられた人間の尊厳に相応するものとわれわれの考える創造の自由も含めた個人の自由の高い価値について、常に語ってきた』と特筆した宣言を採択した。
『創造と自己表現の自由は、その他のいかなる自由と同様に、絶対的なものではない。その表出は社会的モラルが求めるものや自分とは違う人々、世界観の異なるグループ、宗教共同体の権利によって制限を受けるべきものである。・・・残念ながら、この創造の自由が、聖なるものに対する嘲笑の正当化や不道徳のプロパガンダ、宗教的価値や民族的価値の侮辱に利用されていることが稀ではないと、確かに認識せざるを得ない現状がある』と宣言文にある。
宣言文の執筆者たちの意見によると、『事実を歪曲したりや国の歴史的重要人物を中傷したりすることで、人間の尊厳を卑しめようとする芸術作品を創ることにはいかなる正当性もない』『すべての文化人と芸術家たちに呼びかける。自身の活動に責任を持ち、芸術作品が人間の魂と社会全体の精神状態に与える影響というものを考慮してほしいと。・・・なぜならば、モラルの規範を欠いた自由は善のためにではなく悪のために利用されるかもしれず、その芸術家自身の苦しみについては言わずもがな、人間の自己崩壊と社会の劣化を招きうるからである』
ロシア宗教間会議のメンバーの一人は,『今日、我々の眼前にある重要な課題は、個人にとっても社会全体にとっても倫理的価値が束の間のものではないことを立証することである』と言う。
宣言は述べている。『我々は、芸術に携わる人たちが愛と慈悲の理想の精神で人間の啓蒙に寄与する自分たちの共同者だと思っているし、創造共同体の代表者らとの対話にはこれまでどおりオープンである。真理に反するいかなる行動も攻撃や過激主義も断固として非難しつつ、我々は社会を構成する誰もに対し、価値について熟考し、生じてくる意見の相違を好意的な対話で解決する態度を保ち続けることを呼びかける。我が国の将来は、我々一人一人が宗教的文化的伝統と歴史的記憶、互いの人としての尊厳に対する尊敬の念を発揮することにかかっているのである』

実は今ロシアでは、有名なバレリーナ、マチルダ・クシェシンスカヤとロシア帝国最後の皇帝ニコライ二世の禁断のロマンスを描いた映画、アレクセイ・ウチューリン監督の<マチルダ>が社会に波紋を呼んでいるそうです。
ロシア正教会ではニコライ二世は聖人に列せられていますので、過激な宗教活動家や国粋主義者たちが皇帝の名を汚すとして、監督のスタジオに放火したり、公開予定の映画館に車で突っ込んだり、映画館の放火を予告したり、様々に脅迫したりと、ちょっとした騒ぎになっているらしいのです。
ロシア当局は<マチルダ>の公開に反対する活動家たちの過激な行動を断固阻止すると言明、文化省も公開を支持し、プーチン大統領も10月13日に「公開中止を求める過激行動は容認できない」として警察が取り取り締まると述べましたが、国会では同作品はニコライ二世を中傷する内容だとして、クリミア出身の某女性議員が公開反対の立場を主張しています。
聖書は愛読するものの、本質的には無宗教で敬虔さを欠く私などは、そこに人としての尊厳を傷つける侮辱や悪意がなければ、ニコライ二世の人間的な部分を描いた映画が作られて何が悪い、と思ってしまいますが、皇帝を神と同一視する人たちにとっては違うのでしょうね。ちょっと理解しがたいところです。
政治的にプーチン大統領は、基本的にロシア正教会が支持するところの保守的で国粋主義的な宗教右派的イデオロギーを否定することなく、ロシア正教会とも良好な関係を保ちながら、自身の支持基盤に取り込んできましたが、そのかじ取りが微妙に難しくなってきている感じですよね。


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