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裸の俳優が舞台に登場するとは何事ぞと、メジンスキー文化相

本当にずれている文化相ですね。
政治経済はともあれ、いやしくも文化に携わる立場の官僚や役人に必要なのは、最低限の理解度と寛容度と教養でしょう。
メジンスキー文化相が、モスクワ芸術座の演劇生たちが指導教授の下で上演する演劇スタジオ公演に、裸の俳優が登場したと怒っているそうです。
11月8日付のノーバヤ・ガゼータ電子版(https://www.novayagazeta.ru/)が書いていました。

「ウラジーミル・メジンスキー文化相が、モスクワ芸術座演劇学校スタジオのイーゴリ・ゾロトヴィーツキー学長に、同スタジオの舞台に裸の俳優が登場したのはどういうわけかと、説明を求めた。リアノーボスチが伝えている。
『子供たちに何を教えているのか、ただ興味深く感じただけだが』と彼は述べ、「幸いにも私自身はこの無条件に天才的なお芝居を観てはいないがね・・・』と付け加えた。文化相は、裸の役者が舞台に登場したという事件自体についてはマスコミで知ったのである。
ドミートリー・ブルスニーキンの下で学んでいる演劇生たちが上演したイリヤ・ズダネヴィッチの戯曲の舞台化にまつわる話である。芝居の途中で裸の俳優が登場したのだ。舞台は、シューキン名称演劇大学の俳優にして教師のウラジーミル・ポグラゾフによって中断された。彼は同僚の裸に憤慨し、つかつかと舞台の上にあがっていったのだった。
メジンスキー文化相の意見によると、『演劇の革新者』はモラルに関する自身の理解をよみがえらせる必要がある。観客がまさに舞台の進行中に憤りを表明するということは、彼らは演劇に何かもっと違ったものを求めているということなのである、と彼は言う。
『自身のためにではなく、おそらくはほんの少しでも気分良くなるために劇場にやってくる観客のために、芝居を上演しているのだと理解する必要がある。』と付け加えた。『俳優たちがああした格好で出てくるということは、彼らにも演出家にも観客に見せるべきものが全くないということである。なぜならば、これは才能云々といった話ではなく、演出家としての能力や俳優としての能力がミニマルであるという話だからだ。実際、悲しむべき話である』とメジンスキー文化相はコメントした。
同文化相は、こうしケースにおいては文化省が創造プロセスに介入するだろう、とも述べた。『国立劇場は、ましてや演劇学校スタジオは、モラルの規範を大切にしなければならない。この芝居を上演しているのが学生であればこそ、なおさらである』とメジンスキーは述べた。
渦中のドミートリー・ブルスニーキンは、通信社<モスクワ>に対し、学生たちがこの芝居を上演するのを禁じるつもりはない、と述べていた。同氏の教え子たちの作品は一度ならず上演されている、と彼は言う。ポグラゾフの行動については、彼が舞台に駆け上がってきたことで演劇生たちが別に<うろたえたりしなかった>のであれば、それは<上演作品の一部>となりえたということである、とコメントした。イリヤ・ズダネヴィッチ(ロシアの未来主義やダダイズムなど様々なアバンギャルドの潮流に加わった作家)の言語は『シューキン名称演劇大学の御仁にはちょっとわかりづらかったのだろう』とも皮肉った。ブルスニーキン氏は同僚に、オベリウとは何か、ダダイズムとは何かについては、知っておいた方がいいとアドバイスした(訳注:オベリウとは、1920年代末にレニングラードで活動した不条理文学のグループ。30年代以降ソ連では完全に無視されたが80年代後半になって再評価され、前衛芸術運動の先駆者として脚光を浴びた。オベリウは<リアルな芸術連盟>の略)
<演劇>誌の編集長マリーナ・ダヴィードヴァは、舞台に裸体が登場するのは、舞台に衣装を着た人間や黒いチューブが登場するのと同様に、ごく自然な表現手段である、と言明した。『文化大臣氏の述べられた意見は、この現代文明の時代には存在しようもないものです。私は年中世界を旅行して回っており、舞台に裸の俳優たちが登場する芝居も数えきれないほど見てきました。これらの舞台は決して才能のない作品ではなく、時として極めて才能豊かな作品でした。時として死すべき人間の肉体のはかなさや社会的諸問題をテーマとしたものでした』と彼女は語った。」

こんな人物が文化相を務めている限り、ロシア現代文化の先行きが危ぶまれますが、そこは歴史も伝統も奥行きも深いロシアのこと、気骨のある文化人やインテリゲンツィア階級はまだまだ健在であると信じたいところです。

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