SSブログ

ロシアで相次ぐ学校惨事

ロシアの学校で悲惨な事件が続いています。インタファクス通信によりますと、1月19日の朝、ブリャート自治共和国の首都ウラン―ウデの集合住宅地区ソスノーヴィ・ボールにある第5番学校で、9年生の男子生徒が7年生の複数の生徒と女性教師を襲った後、自殺を図るという事件が起きたそうです。
米国ならいざ知らず、ロシアではこれまであまり経験のない事件がここ1,2年連続して起きていることに、ロシア社会は少なからぬ衝撃を受けているようで、ロシア各紙が取り上げていました。

その中から、2018年1月20日付ガゼータRU紙電子版(https://www.gazeta.ru/)の記事をご紹介しておきます。

「ブリャート自治共和国で起きた9年生の男子生徒が同校の生徒と教師を襲った事件の結果、襲った生徒を含めて7人が重軽傷を負った。数日前にペルミで起きた同様の事件では15人が負傷している。
ロシア科学アカデミーの社会学研究所の主任研究員レオンチー・ブィゾフは、同級生を殺そうとか下級生を殺そうとかいったロシアにとって新しい現象の原因は、社会に溜まった未解決の様々な問題によって説明がつく、という。
ひとりの生徒が同じ学校に通う生徒たちを襲う事件は、1月19日金曜日に起きた。斧を持った15歳の9年生の男子生徒が、ブリャート自治共和国の首都ウラン―ウデの住民地<ソスノーブィ ボール>の学校で7年生たちを襲い、それから発火性の液体の入った瓶を投げつけ、火事を起こそうとした。地元保健省の報告では、その結果7人が負傷を負った。13歳の生徒対5人と、ロシア語とロシア文学の女性教師イリーナ・ラメンスカヤと、襲った男子生徒自身である。全員が救急車で地元の病院に運ばれた。
これまでにも、負傷者の数のもっと多い同様の事件がペルミで起きており、昨年にはモスクワ近郊のイワンテエンコでも同様の事件が起きている。武器を持った生徒が同級生たちを殺そうと学校を襲うなどということは、これまでロシア社会の特徴としてはなかったことである。
ガゼータRU紙は、この新しい問題について、前出のブィゾフ主任研究員と議論した。どうしてこうもしばしば、手に武器を持った生徒がまさに教室内で同じ仲間たちを襲い始めたのか? ましてやこれまでは、こうした現象は基本的に米国で起きていたものだった。
―我が国の社会ではこの数年間で攻撃性のレベルが急速に上がった。これまでも決して小さくはなかったが、今やこの問題は危機的な規模に達している。
そのうえ、こうした攻撃性がまったく無差別的に発揮されることがしばしばなのである。何が人々を不安がらせているのか、何に抗して彼らは行動しているのかがわからない。
彼らは具体的な何かに抗して行動するわけでもなく、周りのすべてを攻撃することがあるのだ。そこから、事実上根拠なき軋轢が、教師と生徒との間で、上司と部下との間で、コミュニティの隣人同士の間で、起きているように見える。
これに加えて、始終火に油を注いでいるかのようなマスコミの存在がある。記者たちは敵を探せ、誰かから身を守る用意をしろ、と絶えず我々に呼びかけ、けしかけている。われわれの抱えている様々な問題について、善意というものが足りない。落ち着いた議論が欠けているのである。
これらすべてが我が国の社会を極めて攻撃的なものにしている。こうしたファクターに、私はさらにもう一つ重要な問題を付け加えたい。現代の若者世代を指導する人の数が極めて少ない点だ。学校は、生徒に必要な知識と能力を教え込むだけではなく、人間として他の人々と交流することを学ばせ、育成していく制度ではなくなった。教師たちは点数付けやその他の書類仕事に忙殺され、本来の仕事には形だけ関わっているに過ぎないことが稀ではない。その上、教師たちは生身の生徒たちと接触しなくなってきている。親たちはますます経済状態が悪化していることで、どうやってお金を稼ぐかという問題で頭がいっぱいで、自身の子供たちに振り向ける時間と余力がないのが現状だ。
この結果、若い世代は気ままに行動し、人文主義的価値観を共有していない。まさにそうした価値観を育む文学の時間が減らされていることにも注意を喚起したい。
―しかし、90年代より今の方が人々の暮らしは物質的には豊かだ。90年代にはこうした犯罪はなかった、あるいは報じられることはなかったのだが・・・
―現代の若者たちは、確かに2000年代に成長してきた。だが、その後経済は停滞し、近年では物質的豊かさのレベルが落ちて、特に2014年から2015年に事実上ルーブル通貨が切り下げられてからは、貧困者数が増えている。人々は次第に危機に陥っており、直面している山積みの金融・経済問題をどうやって解決したらいいのか、途方に暮れてしまっているのが現状なのだ。
これにもう一つ、現代ロシア社会は極めて個人主義化されている点を付け加えたい。人同士が互いに狼だ。いかなる対価を払ってでも一切れのパンを奪い取らなければならない、たとえ時として身近な人からでも・・・というひっ迫感に誰もが縛られている。我々が直面しているこうした心理状況が、今あふれ出しているのだ。
―これは奇妙ではないか。長い間ロシアは、帝国時代に存在した強い共同体の伝統を持った国だった。ソ連時代にあっても、集団の価値観の方が個々の個人的価値観よりも重要であるという精神で、誰もが教育されていた。
―共同体は徐々に崩壊し、今は完全に崩壊してしまった。共同体はすでに20世紀初めに崩壊し始めたが、20世紀半ばに完全崩壊した。これは圧倒的多数の住民が農村から都市に出てき始めてからのことである。様々な社会学的研究が示している事実は、我が国は欧州でもっとも個人主義化された国になったということだ。我々は大多数の欧州国家の住民たちよりも、連帯や共感に心を向かわせるケースが少ない。こうしたばらばら感ゆえに、労働組合や人権擁護の闘いや何らかの人々のグループの活動を促進する組織を作ることがうまくいかないのである。我々はどんな問題であれ嘆願書をもってお偉方のところへ行く。自分たち同士で話し合いをつける能力がなく、互いを信じていないからだ。
―ペルミとブリャーチアの事件の後、すべてはますます人気の高まっているソーシャルネットとコンピューターゲームに罪がある、という意見が広まっているが、そうなのか?
―利もあれば害もある。一方では、ソーシャルネットは多くの人々にとって唯一の通風口となっている。ソーシャルネットの助けを借りてのみ、多くの人々は自身の社会的交流の欲求を満たすことができるからだ。また一方では、ソーシャルネットでの交流、特にコンピューターゲームにあまりにも夢中になると、そうした人々の一部では現実生活とバーチャル生活の境界が消えてしまうようなことが起こりうる。
ヘビーゲーマーの中には、コンピューターゲームによって殺人のタブーが取り払われてしまうような者たちもいる。彼には、これは単なるゲームであり、次のレベルでは彼に殺された人物は再び生き返るように思えてしまうのだ。潜在意識レベルのどこかで、仮に何かうまくいかなくても、簡単にやり直すことができると信じ込んでいる人々の世代が登場し始めている。しかし、現実がより厳しいことはわかりきったことだ。
―この状況を何とか正すには、学校教育改革を行うことが必要だろうか?
―無条件で必要だ。学校教育はかなり低い水準にまで落ち込んでいる。今の教師は生徒に対する権威を失っており、授業外で生徒の教育に当たる物質的その他の余裕がない。ほんの一部でもいい、しかし、ソ連時代にはあった我が国の教育の人文主義的なベクトルを復活させることが重要だ。学校は、知識や能力を与えるだけではなく、子供たちに様々な人間としての質を分け与えつつ、彼らを人間として成長させていくように努力するべきところなのである。
しかしながら、こうした改革だけではすべての問題を解決しえない。我が国の社会は全体として展望というものを失ってしまっている。大人たちにとっても子供たちにとっても、その状況は同じだ。彼らは将来について考えていない、仮想としての<明日>を思い描くことができない。それが特徴である。欧州諸国を例にとってみれば、彼らには20年30年後に自分たちの住んでいる国がどうなっているかというおおよその理解がある。なぜならば、すべてがすでに数十年前に定められたベクトルの軌道に乗って進んでいるからだ。
我が国はと言えば、何でも起こり得て、起こりえないことは何も予測できない国なのである。革命が起きるのか、戦争が起きるのか、あるいはさらに何かが起きるのか、そして起きるとしたら、それはいつなのか? 人々が今この時のためだけに生きているときに、何らかのパラダイムの枠内で若者たちを教育することは可能である、と言うことは難しいものだ。こうしたファクターについては、短期間では何もできないからである」

ある意味、ロシアも我々と同じく、現代病に深く侵されている国になっているのですね。

nice!(2)  コメント(0) 

nice! 2

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。